浴室 呼吸と熱

 月明かりだけが差し込む浴室。時折響く雫の落ちる音。それから咀嚼音。
 “食事”の時間、私の方からは特にすることがない。何か変化があるとすれば、胃に溜まった血液を吐き出すくらいだった。

 ふと思い立って、腹の上で揺れる赤い髪に指を差し込む。特に意味はない。されるがままというのは想像以上に退屈なもので、気が紛れそうな手段があればとりあえずやってみようとするのは何もおかしなことではないだろう。餌を食べている犬の頭をなんとなく撫でるような感覚に近い。
 4本の指で髪を梳き、単調な動きで頭を撫でる。しばらくそうしていると手の動きに追従するように頭が揺れるようになった。気が散ったのだろうか。
 彼の顔がゆっくりと上がる。髪を梳いていた手を側頭部に沿って滑らせ、頬から顎に手の平が触れた。匂いを嗅ぐような仕草を見せた後、親指の付け根を噛まれる。噛み癖があるな……などと飼育員めいた感想を抱いていると、噛まれた部分に湿った感触を覚えた。どうやら血を吸っているらしい。内臓を囓る際についでに血を啜られることはあるが、血そのもののみを目的とされたのは初めてかもしれない。
 少し噛んだ程度では満足のいく出血量は得られなかったのか、所在なげに揺れた彼の瞳に映ったのは私の口元だった。吐血した際拭わずに放置していた血が首を伝って鎖骨まで垂れている。
 左右の鎖骨の間に唇が触れる。拭うように舌が首筋を這い、顎を吸われ、口元に到達する。
 口の周りの血を啜った後、薄く開いた唇に舌を捩じ込まれた。口内に残った血をゆっくりと味わうかの如く這い回り、感触を確かめるように歯列をなぞられる。
 彼の舌は人間のものと比べて長く、口の中に滞在されると呼吸が儘ならない。酸欠で真っ白になった頭が舌の感触で塗り潰されていく。
 不意に口蓋に舌が触れ、僅かに身を震わせてしまう。気付かれないように肩を掴むと、名残惜しそうに音をたてて唇が離れていった。

「苦しかった……?」
「……いえ」

 観察するように覗き込んでくる顔から目を逸らして息を整える。
 彼を“そこらへんの魔獣”と比較したとき、「社会に溶け込める程度の知性がある」というのは違いとしてとても大きいように思う。気遣うような素振りも知性によるものだろう。(気遣われたところで結局食い散らかされるのだから意味はないが……)

「食事を……中途半端に……本当に行儀が悪い……」

 そして、知性があるからこそこういった遊び食べのような行為に耽るのかもしれない。
 血に塗れた口元を指で拭ってやると、彼は「ふぅん」と目を細めた。咎めているつもりだったが、そのように受け取られるとは限らない。

「ギンカくんは――ここを……食べてほしかったのかな……?」

 彼の背後から伸びた触手が腹部から溢れている腸を撫でる。

「ギンカくんのお願いなら全部聞いてあげたいけど……ギンカくんは美味しそうなところが多いから――」

 自重で滑り落ちた小腸を触手が掬い上げ、彼の唇に触れた。小さく音を立てて吸った後、歯を立てずに唇で食まれ、湿った舌で撫でられる。
 痛覚は既に麻痺しているはずだが、触れられた部分だけジリジリと熱を帯びていくようだった。不可解な感触から逃れようと顔を背けると、興が乗ったような笑い声が頭上に落ちてくる。

「目移りしちゃっても仕方がないよね……」

 “食事”はまだ終わっていない。
 長い夜になるだろうが――少なくとも退屈はしなさそうだと、霞みはじめた意識の中で思った。

2020.11.1

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